2019年10月14日月曜日

今年最高作かもしれないジョーカーの話

今回は映画の話。

ネタバレ込みなので悪しからず。

その映画のタイトルは――ジョーカーである。




米国上映時に米軍・警察を動員したり、DC――いわゆるアメコミ映画のカテゴリーに属しながらベルリン映画祭で金獅子賞を手にする等、話題には事欠かない映画だ。

映画の中には、時代を変えうるような作品が稀に生まれる。

傑作とはえてしてそんな力を持つものだ。

本作は、2019年の今観るからこそ傑作と呼べる映画といえるだろう。

MTGを離れてこういう文章を書かないと、重い――そういう映画だった。

以下、ネタバレあり







この映画は、アーサーという男が如何にしてジョーカーになるかの映画だ。

物語のほとんどを、アーサーの壊れかけた日常に費やしている。

彼自身は、境遇に負けず、何とかしようともがいている。そう、個人で出来る努力をしている。

予告に在るように、心優しい――かどうかはわからない。ただ、社会に、自分はここにいると訴えようとしていた。それでも、社会に馴染めず、妄想と現実の区別が曖昧になり――そして彼は脳の疾患を患っている。緊張すると笑う脳の疾患――脳挫傷による、高次脳機能障害だろう。

外見からはわからないその病も――いや、それは、母親による教えの一つかもしれないが。

外見からはわからない。それが、一つのキーワードとなる。

そんな人間は、どこにでもいる。もしかしたら、自分もそうかもしれない。

人間関係、社会とのやり取り、仕事、自身――いるはずだが、あまり身近に感じない人も多いと思う。

それが社会生活というものなのだ。あるいは正常バイパスか。

臭いものには蓋をせよ、だ。

階級差が増悪し、銃が身近にある米国はもとより、毎年3万人が死を選ぶ日本だって似たようなものなのかもしれない。

だが、自分という顔のない人間、その思考はある程度見える。ある程度見えるから危ういのだ。

ジョーカーは、最後、全ては主観だと問いかける。社会に拒絶され嘲笑われた個人は、社会に働きかける方法――盛大にジョークをかますことを見出してしまう。

アーサーは、どこにでもいる。しかし、ジョーカーは、どこにでもいるわけではない。どこにでもいるわけではない、とされていた。

ジャック・ニコルソンのジョーカーは、狂気だった。

ヒース・レジャーのジョーカーは、純粋悪だった。

この二人は、映画史上に残る悪役だった。

ホアキン・フェニックスのジョーカーは――どこにでもいる悪というべきだろうか。

いや、悪なのだろうか。その定義ですらも、曖昧な存在になってしまっている。正義はあくまで主観的なものだからだ。倫理的に正しい行為は、あくまでその時代に沿ったものに過ぎない。

彼自身は、社会への適応を、そういう形でしてしまったというだけかもしれない。

――京都アニメーションの事件を、厭でも思い浮かべてしまう。その一線を踏み越えることは簡単で、被害は甚大で、そして、他者には理解しようもないし、したくもないものだ。

何故なら、その種は、誰にでもあるとなってしまう。

この映画自体が、現実と幻想の境界の狭間を漂うコンテキストとなっている。

アーサーの現実と幻想。

母親の現実と幻想。

アーサーの愛した母親という幻想は、物語終盤崩壊し、アーサーの望んだ幻想は、現実の前に脆く崩れ去り、そうとなれば手段は二つ。

幻想を現実に添わせるか、現実を幻想に引き寄せるかだ。

ゴッサムシティの上流階級と下級階級のその境界――チャップリンの映画が流れる場面が、印象的だ。

現実と幻想――物語上重要な役割を果たすウェイン一家もまた、バットマンの幻想にして、現実を映し出す鏡なのだ。

そうやって、映画の陰鬱さを緩和する役割があるのかもしれない。もしウェイン一家の下りがなければ――この映画は現実と地続きしすぎる。

今の社会もそうで、電脳により世界中と繋がった結果、もはや幻想の世界といえるだろう現実と、何の準備もなく向き合うようになっている。

少し前は、村単位が一つの――最大の共同体となっていた時代もあったのに、今は地球単位の話だ。

周辺住民との商売が出来れば食えていけたのに、今では世界中の同業者がライバルだ。

と、話が逸れた。

この映画の秀逸なのは、アーサーに感情移入させながらも、どこか突き放している点だろう。

ジョーカーになるか、ならないか。それは、人それぞれに過ぎない。

自分は同じ境遇でも、そんなことはしなかった――逆にいえば、同じ境遇で、そんなことをしてしまった人間もいる。

その差異は、僅かな――狂気なのだろう。

社会の倫理は刻一刻とかわる。

常識は普遍的な理ではない。

そのうつろいは、蝋燭の灯のようなもので――無数にある個人の正義が、一つの確固たる理にまとめ上げることが可能だと、もはや考えている人間は少ないはずだ。

アーサーは、自身を拒絶した社会に復讐する。

それを認めてはいけないが、認めてもいいと思わせてしまう、そんな説得力と、そして、時代の匂いを反映させた映画となっている。

だから、傑作なのだ。その演技も、その映像も、その語り口も、その音楽も、全ては誰でもあり、誰にもないといえる、ジョーカーという存在を描きだしている。

ざっと批評をみると、アメコミ映画を観ないという人の論考に、ジョーカーというキャラクターのオリジンを描いたことで、その神秘性が損なわれるというものがあった。

なるほど、観る人によって感想は違うものだと思った。

ノーラン版ジョーカーは、その起源も何もなく、ただ純粋悪として、映画の中に確かに鎮座していた。

アメコミを観ないと謳いながら、あくまで純粋悪としてのジョーカーにこだわるなら――アーサーという人格と人生を与えたことによりそのカリスマ性を失わせただろうか。

その悲惨な生い立ちと、終盤に待つカタルシスは。

この映画に限って言えば、そうは思わない。

その論評は一つ忘れている。

その結末だ。

最後、アーサーとカウンセラーとの対峙で、映画の全てが、アーサー自身の語りだったということを観客は知る。

それは語りで、現実と幻覚に苛まれていた――騙りかもしれない。

しかし、その語り手は?

アーサーがジョーカーという証明は出来ない。そういう話の造りだ。嘘吐きの嘘は、真実か否か判別困難なのだ。

だから――もはや、誰がジョーカーなのか、本当にあった出来事なのか、真実は藪となりその存在は現実を蝕む幻覚といえるものになってしまっている。

ジョーカーのオリジン――そう語る論評は、最後の最後に訪れる、その作品自体の虚構の倫理――人の理で崩せない言葉遊びに触れていない。

インセプションのように、それが夢の世界なのか、もはや誰にもわからない――それを鑑賞した人間の脳内にしか、答えはない。ゴッサムシティで、クラウン姿の全てがジョーカーで、ジョーカーではない、それは増殖する悪夢であり、それが悪夢なのかどうかすら、映画を観たあとでは誰にもわからない。

正義は主観だ。アーサーの罪を咎め、一方では英雄視する。ウェイン一家は、アーサーを拒絶し、街に住まう人々をクラウンと呼び反発を招いていた。

現実に即しても例は幾らでもある。

あの最後がなければ、この映画は、ジョーカーのオリジンを描いたアメコミ映画といえるだろう。

だが、あの最後があるからこそ、この映画は、時代を映し出すとともに、時代を超えた普遍性を得てしまったではと感じる。

だから――この映画は、時代の寵児であり、傑作なのだろう。

もう一度、映画館で鑑賞できない。

この重圧は、一度でいい。

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