2019年9月30日月曜日

拡張アートはMTGという文化を破壊する行為なのか


『拡張。あれは本当にひどいです。拡張アートなんて呼ばれていますが、アートとよばれているようなものではあ…』

『下手くそがアーティストぶって拡張したカードは本当に酷い状態になってしまうんです。MTGという文化を後世に残すためにも、絶対に拡張はしてはいけないと思います。』







某カードショップオーナーの発言。

それに関して、徒然なるままに考えを連ねようと思う。



端的にいえば、嫌いな考え方である。







某カードショップオーナーの発言――MTGを文化として認め、それを周知しようと活動していると思しき人間の一人が、こうした発言をしてしまうというのは悲しくなる。

まずは、文化と概念をどう扱うか。

それは繊細で難しいものなのだろう。

世の中には、これは文化なのかという問いかけが付きまとってしまう表現方法なんて山ほどあるし、何なら東海地方で行われたのなんかは、ここ最近の最たるものだ。

ここで問題となってるのは、カードショップの一個人オーナーが、一つの楽しみ方に対して、してはいけないと断言したことだ。


一つの潮流の結果、その意見が生まれ山を動かすというなら別に構わない。それが民主主義国家――遥かアテナイから続く集団智に基づく選択方式というものである。

これは、そうではない。あくまで個人が、独善的な考えを公にしたに過ぎない。

その内容に賛否があり、そして何より、ツイッターという文章表現の場において、あまりにも拙いものだったというだけのことだ。

そして――MTG界隈では、古くから続く店舗オーナーという、私人と定義するには枠を外れた存在による、目につきやすい発言というのもあるだろう。

個人的には、拡張アートに対して、否定的なものはあまり聞いたことがなかったし、自身が考えたこともなかった。

それは、イラストレーターのサインの場がGP会場に用意され、楽しみに並び、拡張アートを施された記憶があるからだろう。黎明期のシャドーアートの方と親しかったこともあるかもしれない。

少なくとも――自分は、拡張アートを非とはしていない。MTGが文化になるのは歓迎するし、一過性のブームではなくそうなってほしいと願う人間ではあるが。


下手くそとは、何だろうか。下手くそは、拡張アートをするなと書いてある。下手とはなんだ。イラストレーターならいいのか。もし、マローにサインと落書きをカードにしてもらったら?リチャード・ガーフィールドの拡張アートなんて、垂涎モノだ。

誰が価値を決める。上手い下手を決める。このショップオーナーか。個人的判断と、趣味嗜好で決めるのだろうか。

現代アートだってルネサンスだって浮世絵だって、自分は好きだ。上手い下手は、何となく感じることはあっても、それは個人の嗜好によるものだとわきまえている。

それは、文化的な背景と、個人の価値観に基づくものなのだろう。

絵の上手い下手を見極められるような審美眼は、生憎持ち合わせていない。絶対的な価値観はないからだ。あくまで、相対的な価値観しかない。

単なる落書きが数億円数十億円の価値があるかもしれない時代である。

単なる土くれの塊が、数万年の時を越え発掘されたといえば圧倒的価値観を誇る――それが、文化というものだろう。

コンテストで下手と落選続けた作品が、有名画家の手によって人気を博すことだってある。

積み重ねた営みを否定し、個人の意見で文化的行為を弾圧する――それはそう、過去に焚書と呼ばれた現象であり、たかがゲームと蔑まされていた自分たちの行いを自己否定する発言になってしまう。

趣味は蔑まれがちだ。自身の趣味を、「いい歳になって」と言われた経験のある人も多いだろう。そこに明確な筋道はなく、ただ個人の嗜好で個人の嗜好を馬鹿にされる。

「あなたのためだから」

大上段から正論ぶって振り下ろされるそれを、防ぐことは難しい。だが――他人に迷惑をかけない限り、個人の趣味を直接馬鹿にするのは愚の骨頂だ。

「ゲームをいつまでやってるの~」

「漫画をいつまで読んでるの~」

「TVをいつまで見てるの~」

「映画をいつまで観てるの~」

「小説をいつまで読んでるの~」

etcetc。

ゲーム脳というこの世から根絶してもいいと個人的には思う言葉もあったが、その根本は、結局のところ自身の思想に合わない思想の拒絶なのだろう。



いわゆるサブカルチャーと呼ばれたもの――漫画でありアニメでありゲームであり――現代美術や浮世絵に至るまで、それらの否定につながるわけだ。

文明開化の時代、浮世絵は伊万里焼の包み紙となった。文化的価値を認められなかったのだ――それが、時代や場所の変化により、一つの美術カテゴリーに至るわけだ。

下手くそはやるなというのもおこがましい発言であり、それは全ての――おそらく、地球上に在るほとんどの人間が、何も出来なくなる発言なのだろう。

それほど、自己欺瞞な発言なのだ。

下手なプレイヤーは、音楽を奏でるな。

下手なプレイヤーは、料理を作るな。

下手なプレイヤーは、ラグビーをするな。

下手なプレイヤーは、山に行くな。

下手なプレイヤーは――MTGをやるなということだ。そうとしか、読み取れない。

そして、下手とは何ぞやという禅問答に達するわけだ。そこまで考えているのであれば、立派である。考えていないのであれば、それは浅はかというものだろう。

むしろ、自分を上手いと思っている人間ほど、たちが悪い。

個人の嗜好は絶対的に存在する。それが発露出来ないのであれば、それは絶対王権政――独裁国家の完成というわけだ。

疑似社会主義国家と言われながら、文化的自由を与えられている――日本という独自国家の有難みは、大事にしたいと思う。

森氏の発言は、一つの真理をついている。

あくまで、鑑定結果を至上とするのも一つ――芸術品として尊び、ゲームをしないというのも、MTGの愛で方だろう。

子供が、ノンスリーブで、砂場でMTGというのは、微笑ましい光景だし、基本的にスリーブ必須のゲームではない(カード枠の違いは伏せる)。

サインも拡張アートもまた、個人の自由。それが、MTGとの付き合い方における幅の広さだ。店として、レーティングが落ちる? 

それもまた、一つの愛し方だ。店の売買という概念では、そうなってしまう。サインドカードは、値段が落ちる。

それは、古書という脈々と歴史ある文化財産と、同じだ。サイン本は、美品とはされない。基本は、値段が落ちるのだ。

だが、そこに、価値を見出す人間は多数存在する。そうでなければ、サイン会は成り立たない。

美品でないカードを許せない人間だろうし、逆に、そのカードに描き加えられた表現を、尊ぶ人間だっているだろう。

否定も需要も個人の勝手、とはいえ、それを他者に強要すれば、それは文化の終わりである。

そして――鳴かず飛ばずもそうだが、自身を至上とし、他を蔑むようにきこえる、その手の発言は――結局、嫌いなのだ。









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