『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』を観た。
そして、泣いた。
2018年に放送された『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の劇場版である本作。
TVアニメ版は、1話だけしか見ていない。
それでも、観に行った。
あの京都アニメーションの作品だからだ。
『涼宮ハルヒの憂鬱』に始まり、『らきすた』、『CLANAD』、『けいおん』、『日常』、『氷菓』、『中二病でも恋がしたい』、『たまこまーけっと』、『境界の彼方』、『無彩限のファントム・ワールド』、『小林さんちのメイドラゴン』と見てきた。
その演出と、圧巻の動きと光ある風景――細微な表現に、感情を揺さぶられた。声優さんの存在を明確に認識したのも、このスタジオの作品からだ。
京都アニメーションは、ずっと存在するものだと思っていた。
ジブリは、静かに消えていった。でも、このスタジオがこの国にあるならばと。
だから、この作品を、観に行きたくはなかった。
あの事件の一日前に完成した作品である。
観ればどうなるか、そもそもまともに観れるのか、わからなかった。
時間の流れは恐ろしいもので、あの時抱いた感情を、はっきりと思い出せることは出来ない――自分の中で言語化できなかった感情が、脳の中の記憶回路に定着できかったということだろう。
作品単体では、観れない。京都アニメーションを、観ることになる。
それは、いわばけじめのようなものなのかもしれなくて――やらなければ後悔する類のものだと、理性が訴えていた。
だから、観た。
そして、泣いた。
ED――スタッフロールに入った瞬間だった。
涙が止まらなくなったのだ。
本編は、いい作品だった。
それは、前向きな終わり方で――常の自分であれば、泣くことのない作品だった。
泣き所とすれば、物語終盤、手紙を渡す場面だろうか。
だけど、そこではなく――スタッフロールだった。
その中には、もう、存在しない人もいるのだと思うと、どうにも涙が止まらなかった。
スクリーンから光が消えるまで――いや、劇場を後にしても、泣いていたのだと思う。
理不尽が、一番怖いのだ。そこには、理がなく、怖いだけだ。そして、これだけの作品を作り上げた――そして、これからも作っていくはずだった人たちが、理由にならない理由で、この世からいなくなってしまった。
動画配信サービス黎明期、上京しての学生生活、自身の環境の変化、そして、時代の変化――2000年代は濃密で、当時の自分の中でアニメという創作物は大きな面積を占めていて、そんなアニメスタジオの中で、京都アニメーションが一番好きだったのだ。
あの時代を生きたことが、消えることはない。自分という概念がこの世に原子の塊として存在する限り、消えるはずがない。
消えはしないが、寂寥感と喪失感に苛まれてしまう。
10年余のあの時代の何かが、決定的に毀れてしまったように感じてしまう。
それは、やっぱり、言語に還元できない感情だと行きついてしまい――もう一度観れば、同じように泣いてしまうのだろうと思う。
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